現在=結果には、必ず過去=原因が有るのだ。それをつくづく感じるのが、私にとっては歴史を学ぶときである。
一人一人の生きる営みが積み重なり、大きなうねりとなって流れを作っている。ある事象が引き起こした事象が、
更に別の事象を引き起こす。それを辿るのが好きで、私は史学科を志望したんだと思う。 この言葉は、ドイツの敗戦四〇周年の際に旧西ドイツの連邦議会でヴァイツゼッカー大統領が行った演説の一説なので、 聞いたことのある人も多いんではないかな。日本と違って旧西ドイツに於ける終戦(敗戦)記念日とは、 加害者としての自分を突き付けられる日である。敗戦は、その原因を開戦に求められると、大統領は説く。 先日辞任した某国の法相の発言では、そもそも開戦にも原因が有ったことを力説していた。確かにそうである。 しかし、原因が有るのは当然であるのだから、その原因で結果が免責される筈が無い。物事には必ず原因が有ること、 これを忘れてはいけない。
人の行動=結果にも、考え=原因が有るのも、自明の理であろう。人の、眉をひそめるような行動を見てとやかく言う前に、
その根底にある考えを汲まねばなるまい。そうした考えを生み出した土壌に思いを馳せねばなるまい。
それをせずに人を非難するのは簡単である。けれど原因を把握してその人を解する行為は、困難ではあるが、
楽な人間関係の基本だと思う。しかし、だからと言って、その原因によってそれら結果が正当化されるわけでは決してない。
原因は免罪符ではないのだ。 そうした寛容性および謙虚さというものは、理性では解っていてもそれを実際に貫くのは感情に邪魔されたりして、 なかなか困難なものであろう。特に国家間になれば国益の対立なんてぇものが入ってくるしね。日本に限ったことじゃ無いけれど、 もっと謙虚にならなきゃいかんよな。あぁ、あたしもか。
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