和泉式部論



*大方の予想を裏切ったでしょうか、谷山浩子ではなくて和泉式部です。
それ程知っているわけではないけれど、
和泉式部の和歌は好きなものですから。*



 彼女の歌はそんなにひねることもなく、大抵ストレートに心情を三十一文字にしてある。最も親しまれている歌は 『百人一首』の「あらざらむ此世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢う事もがな」であろう。こういうふうに解りやすいのが 一番の好感点であるが、歌われる心情というのがまた、良いのだ。

 心が砕けそうなほどの恋。月並みと言えば月並みな心情表現であるが、その後が凄い。「一つも失せぬ」心。千のかけらに なってしまった心は、散って消えてしまうのではなくて、一つ一つが各々「君恋ふる」心として自己主張する。千々に砕ける ことで想いは一千倍にも膨れ上がるのだ。…と、私は解釈している。苦しい恋であればあるだけ想いは深くなる。なーんてね。

 彼女自身の恋は、どれも決して所謂「苦しい恋」ではなかったらしい。でも作る歌の中で彼女は辛い恋に身を焦がす女を 演じている。恋人に愛されながら今にも捨てられそうな、失恋ムードの歌を詠み続ける。その意味で彼女の歌は実体験からの ものではない。しかし「観念的」とはまた違う。

 思うに、「可哀相なあたし」のシチュエイションを頭の中でシュミレーションして 、その世界での苦しさを歌にしていたんじゃなかろーか。ちょっとした失恋とか片想いの記憶を増幅させるなんてのも実にたやすい 事であるし。共通するのは「恋に酔う」こと。…自己陶酔だぁ。

 そんなわけで、このテの暗い心情が大好きな大滝は和泉式部の世界に魅かれるのでありました。和泉式部には中島みゆきに通ずる ところが有ると思うのは、やっぱり私だけかしら…。