夜 の 少 女

「谷山浩子の世界」


  谷 山 浩 子 は 、 よ い ぞ。

と、入学当初から私は事有るごとに主張している。けど別に興味のない人に無理強 いしたりはしない。その代わり、一寸でも興味を持ってくれた人には「布教」してしまうけれど…(怪しい宗教団体ではない)。

 元はと言えば、わたしも友人の布教活動で嵌まった人間なのだ。高校一年のときのクラスメート(後に私と同じ部に入って来 たので部活仲間と言うべきか)からアルバムをダビングしたテープを貸されて聴いたのが、「谷山浩子」という歌手の名前を意識 して彼女の歌を聴いた最初の機会であった。友人は「NHKの『みんなのうた』で聞いたことがある歌手の筈」と言って貸してくれた。 声に聞き覚えは有った。透明な美声。しかしそれ以上に私を魅き付けたのは、彼女が唄う歌詞であった。

 何と言うか、暗い。薄暗い、と本人は表現するが正にそんな感じである。暗いと言っても陰険なわけではなくて、自分の中に深く 沈み込んでいくような、そんな暗さである。ナルシシズムの極致…自己満足に過ぎない恋。それを自覚した上で敢えて無垢な少女の 恋をする。失恋や嫉妬の中であがいている自分を、それに酔いしれている自分を、見ているもう一人の自分…そんな風に自分の心の 中に深く深く閉じ籠る、暗さ。

 昨夏のコンサートに「谷山浩子の“夜の歌”シリーズ」というステージが有ったが、その時の曲に限らず彼女の歌の状況には夜が 圧倒的に多い。それは歌を作るときの彼女が、精神状態を薄暗く保てる時間、すなわち夜を好むからである。自分の中に居るもう一 人の自分と向かい合って「可哀相な私(僕)」を観察する作業は夜にしかできない。昼間には何も無かったような顔をして恋人の前 で微笑まなければならないからだ。

 暗い、と言うと中島みゆきが思い出される。この歌手のドロドロした怨念的な情念の世界も私は好きだが、みゆきの歌うのは 「女」だ。彼女たちには、暗いなりのパワーが有る。「ドアに爪」を立てて「『優しくされて只嬉しかった』と」書き残すだけの 積極性が有る。男に「うらみます」と言い残して不快にさせるだけの強さが有る。少女は、そういう「女」の歌を夜中に聴いて女の 嫉妬に共感することに快感を覚える。あくまでも、「共感」。憧れにも似ているかもしれない。

 浩子さんの歌に出てくる少年少女は感情のぶつけ合いをしない。心の中に悲しい思いを溜めて溜めて、でも微笑んでいる。何も憂 いなど無いという顔をして。思うことを、相手に伝える言葉にはしていない。どんなに深く相手を想っていても。それは、浩子さん 自身がきっと「言葉の力」と同時に、恋に於けるそれの有限性を感じているからだと思う。斉藤由貴が歌った「MAY」の歌詞がそ れを物語っている。

  …慰めの言葉は 百も思い付くけど どれも言えない
   あなたが魔法を掛けた こんな秘密の庭の中では どんな言葉も皆嘘なの…

 初めて聴いたアルバム『空飛ぶ日曜日』のなかで一番「凄い」と思った曲は、「風のあたる場所」である。恋人の心変わりに直面 した少女は、わざと約束を間違えて冷たい風の当たる寒い場所で恋人を待つ。心が凍えているから、恋人が新しい女を暖めているその 時に体も凍えて死んでしまいたいと思う。しかし、ここで間違えてはいけない。思うだけ、なのだ。口には出さない。もし恋人がそ こに現れたなら、彼女はきっと「ああ、わたし、約束を間違えてたのね」と微笑むだろう。心の中でどんなに醜い感情が渦巻いてい ても、心に鬼が棲んでいても、少女はそれを表には出さない。

 よく彼女の歌は「メルヘンの世界」と評されるらしいが、「かわいらしい」という意味で使うならそれは正しくない。「メルヘン」 は根底に残酷性を持つ。そういうニュアンスで用いるならば、この比喩は誠に的を射たものと言えよう。

 いわゆる「メルヘンチック」な曲は多い。それらの曲には『みんなのうた』に使われたような害の無い、純粋に「かわいらしい」 曲も多く有るけれど、かわいらしいメロディに惑わされずによく歌詞を聴いてみると大抵の曲は……。殺す、死ぬ、血、そういう単 語を透明な無邪気な声で、しかも陽気なメロディで唄われると、歌詞自体の刺激がそれ程でなくとも、その落差故に不気味である。

 「やっさしいメアリ 血ぃ吐いてぇ死んだ。あったしのためにぃ死んだ(不思議なアリス)」…ここには「血」という単語が出て くるが、生々しさは無い。情景を想像する時、死んだメアリの体は、倒れている人形のようなイメ−ジになる。

 「あの人の瞼 黄金の針で つついてみましょ あの人の瞼 つついてついて あの人 赤い涙流せ(ほおずきランプともして)」 …眼球を潰された「あの人」の苦痛の悲鳴が聞こえては来ない。男は目を閉じて少女に向かい、ただ静かに瞳から赤い液体を流す。足 の指や踵を失った灰かぶりの姉たちが靴から血を滴らせていてもスプラッタな印象にならないのと同様、ここで流される血はグロテス クにはならない。

 何故か。それは、結局少女の想像の世界の中の物語に過ぎないからだ。心変わりした恋人を、恋人を奪った憎い女を、何もできない 自分自身を、殺してしまいたいと思っても、その思いは心の中から出ては来ない。血が流されるのは少女の心の中だけなのである。 少女が鬼になれるのは、自分の心の中だけである。その鬼をうまく手なづけて嫉妬や恨みを相手に伝える術を身に付けたその時、 少女は「女」になる。相手からの反応を「現実」のものとして考えることをせずに自分の中に在る相手のイメ−ジに「恋」していた 「少女」は、現実の相手を見ることで、現実の男の行動に対する現実の行動を必要とする、時には嫉妬を露にする、「女」になるのだ。

 女には肉体が有るが、少女は肉体を持たない。生活年齢や生活経験が充分であろうとも、心が少女ならばそれは少女なのだ。浩子さ ん自身が、その最たる例であろう。

 「永遠の少女」谷山浩子は、三十路(一寸待て…さ来年には40才…ひい)の今も少女の声で少女の心を唄う。(*註)その世界に共鳴する心 を持つファンもまた精神的少女、と言いたい処なのに、私の知っている谷山浩子ファンの過半数が男性なのは、うーむ。浩子さんは 「少年」を唄うことも多いから…この先は言いたくないぞ。これは、中島みゆきファンであることを私が把握している知り人の内の 半分以上が、やはり男性であることと併せて不可思議な現象であるように私には思われるのであるが…良く判らん。








(*註)
ここの「三十路」というのは、この文章が書かれた当時のものです。
現在の谷山浩子は・・・公式サイトで確認すると・・・ え〜〜〜〜と・・・
・・・ファンサイトはたくさんあるみたいですが、年齢なんてどこにも書いてなさそう・・・(汗
ま、この文章が多分10年くらい昔のものだと思うので・・・もうすぐ五十路なの??